2021/04/29

「市民の精神的自由と学問の自由」(兵庫大学のニューズレターに寄稿しました)

兵庫大学高等教育研究センターのニューズレターに寄稿しました。大学院の指導教員だった有本章先生から、学問の自由についての投稿の依頼を受け、以下の小論を掲載させていただきました。

昨年、日本学術会議の問題が発生してからにわか勉強した内容です。発行後、原稿を書いてからしばらく時間が経った状態で読み直すと、まだ自分の中に定着していないことがよく分かりました。読みにくい箇所もあります・・

しかし、重要なテーマと思いますので、検討を続けていきたいと思います。


市民の精神的自由と学問の自由


2020年9月に日本学術会議の会員任命拒否問題が起きた。本稿執筆時点でこの問題は解決をみておらず、学術会議から会員として推薦を受けながらも首相により任命されなかった6名の研究者は、依然任命されないままの状態が続いている。本稿ではこの問題そのものには立ち入らず、そこから派生して考えるべき問題について議論したい。

今回の問題については学者間でも異なる捉え方がなされているが、私は、政治権力が学問の自由を侵害した問題と捉えている。国会でのちぐはぐな説明によって、菅首相(および首相官邸)が研究者の思想・信条を理由として任命を拒否したことが明白となったからである。しかしそのこと以上に、今回私が問題として感じたのは、学術会議の役割や学術そのものに対する日本社会の理解がきわめて希薄であることが浮き彫りとなったことである。学問の自由はこれまで主に大学内部の問題と捉えられてきた。学問を行う場は主に大学であるからこのことは当然ではある。しかし、学問の自由を大学の問題と捉える前に、日本では学問の自由が憲法によって保障されていることの意味を改めて考えておくべきだと思う。日本国憲法第23条には「学問の自由は、これを保障する」とある。市民の権利を保障し、日本の民主主義の基本原理を指し示す憲法の中で学問の自由が規定されている意味を、ここで立ち止まって考えてみたい。

アメリカ、イギリス、フランスなど市民革命を経た国々では憲法や権利の章典に学問の自由は規定されていない。学問の自由は市民に対する精神的自由(思想の自由、思想の表現・交換の自由など)の一環として担保されると考えられている。日本国憲法でも市民の精神の自由は保障されている。ではなぜそれに加えて学問の自由が規定されているのか。戦前期、大日本帝国憲法下で生じた学問の自由を巡る数々の事件の教訓を踏まえて、憲法23条が加えられたというのが通説である。このことは歴史認識として重要である。しかし、歴史的要因を超える意義は必ずしも明確でないというのが憲法学の大方の見方のようである。

1963年のポポロ事件最高裁判決を踏まえつつ、憲法学における通説によれば学問の自由は大きく4点に関する保障と捉えられる。①学問研究の自由、②学問研究結果の発表の自由、③(大学における)教授の自由、④大学の自治である。このうち、①は19条の「思想および良心の自由」、②は21条の表現の自由の保障に含まれる。その上で、さらに「学問の自由」を保障する意味は何か?憲法学の先行研究によれば大きく2つほどの説明の仕方がある。ひとつは、学問研究は常に従来の考え方を批判し、新しいものを生み出す努力であるから、特に高度の自由が保障されるべきというもの。もうひとつは、学者・研究者は各領域の指導的立場にあり、政治や行政がみだりに干渉すべきではないというものである。

前者は、大学内で行われる研究とそれ以外の場での研究とを含む研究全般に関する説明である。現実にはそれら研究が行われる場は主に大学であり、それを前提に保障内容を具体化すれば、後者のように、大学の研究者を想定し、その特殊性を主張する説明が出てくる。すなわち、学問の自由には、市民的権利として保障されているものと、大学に対してのみ保障されているものとが混在している。表面的に見ると、市民的自由に加えて、大学のみが特権的に付加的な自由を与えられているようにも受け止められる。だが、いずれにしても、大学と社会との関係性がこれまでになく強調される時代に、大学が社会と対峙し、あるいは協調する上で、この点をよく考えておく必要がある。現状では、そのための議論が不足しているように思われる。

以下は私の仮説的考えの域を出ないが、23条を市民的権利と大学のみに対する保障とに区分して理解するのではなく、両者を一体のものとして捉えることが大事ではないかと思う。それによって、大学に認められる権利が市民的自由を支えているという構造を明らかにできるのではないだろうか。それは、民主主義社会の自由を支える大学の社会的存在意義に直接関係する。それをスムーズかつリアルな論理として構築し、研究者がそれをどこまで内面化できるか、さらにはどのように社会と共有しうるかが重要だと思う。

こうした問題を考察する手掛かりになるのが憲法学者の故・高柳信一による『学問の自由』(岩波書店、1983年)である。約40年前の業績だが現代でも示唆的であり、今回の学術会議を巡る事態の問題性を指摘するような記述が各所にみられる。つまり、改めて今回の問題は、それ自体は突発的だとしても、学問の自由を巡る問題の生じ方としては過去の事件と同じ構造を持っていることが理解できる。

高柳は議論の前提として、市民的自由と学問の自由の同質性を指摘する。近代の市民的自由と学問の自由とは、本来同一の価値を志向しており、その間に本質的矛盾対立はないとする。その上で、両者の相互依存性と相関性を指摘し、大学内部で学問の自由を貫徹させる枠組みについて論じている。議論の構造は上述した23条の通説的理解と共通だが、議論を展開した上で再度、市民的自由と学問の自由の同質性に立ち返っている点に独自性がある。この業績以降、大学の自治を超える学問の自由は本格的な研究課題となっていないが、こうした議論を手掛かりに、学問の自由の価値を考え直してみるべき時かもしれない。戦前期より、学問の自由については何らかの形でのその侵害を契機として学界内部で議論が誘発されてきた歴史がある。今回も、学問の自由をどう捉えるべきかについての議論が起こり、認識が深まることを期待したい。



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